昭和五十六年十二月五日 朝の御理解


御理解第九十節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる」


 信心の実力を作っていくという事。勿論信心の実力という事は神様を信ずる力という事だと思うんです。いかに金光教の信心が素晴らしいというて金光様の御信心を広げていこうとしても、その金光教の信心が素晴らしいから直ぐに道が開けるというわけにはいかん。その金光教の信心を本当に分かりね、それを信ずる力がね、はじめの間はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる力が受けられるとこう仰せられますように、自分の力を頂いていくという事はそんなに簡単に頂けるものではないと思うです。その力を受ける間が信心辛抱であります。
 問題は、その信心辛抱の焦点である。例えばそこに弓矢がある。弓矢の稽古をするというても只矢をつがいでいきなりにこう、例えばそりゃ満月のように引き絞っている事をいたしましてもやっぱりそこにはね、的というものがあってのものでなからなければならない。的を目指していうならばね、始めの間はなかなか当たらなかったのが段々当たるようになり十辺に一辺、十辺に五辺というふうに頂いていくうちに百発百中いわゆる実力がついてくるという。私は今日そういうふうに思うです。それをね、合楽の場合はその目当てなら目当てというものを下さるわけですけれども成程、目当てをもって信心の稽古をしなきゃいけないなあという事を感じさせずにはおかん働きが合楽教会にあっておるという事ですよね。
 昨日、神愛会でしたが先生方が皆集まって一人一人のまあいうなら一ヵ月間のいわゆる布教、お取り次の現場でのまあそれこそ生々しい、しかも私はもう度々に思うんですけれどもその度々にねやっぱり実力を得ていっておられるという事ですよ。先生方が皆本気で合楽に傾倒していかれる先生方の場合は、もう必ずいうならば力を受けていっておられる。それがね、その合楽にははっきり目当てというかその稽古の姿勢というか構えというものを私は適切に教えられる説かれる所にね、只満月のように引き絞りました。毎日こういっておりますというだけではいかん。いきなりに云っておるんではなくてこうはっきりとしたその的と構えというものをこう教えてあるわけです。
 例えば、ほんなら今日の御理解なんかを頂きましてもね、この御理解九十節というのはこれは一般信奉者が頂かなければならん事でもあると同時に、これは特に私はお道の教師に対する御理解のように思うんです。ね、布教に出たからすぐに人が助かるという事ではない。その為にはやっぱり力を養い力を頂いて布教に出らなければならない。そこからいうなら難しい事はあるけれども、その一つ一つがおかげを頂いていくうちには、辛抱していくうちにはおかげが受けられるその辛抱していくうちに徳が受けられるというふうに解いております。
 だから、今日は先生方がもう昨夜から泊まっておられますからハァー今日は先生方がおるから先生方向きの御理解をしょうというのではなくて神乍らにね、ハァー本当に一晩泊りで昨日の神愛会で研修しただけではない、もう一晩泊まって朝の御祈念を頂いて帰ろうというその構えに対して神様がもう早速こういう、これはいつの場合にでもそれを思うんですけれどもいうなら今日は昨日神愛会に参加された先生方に対する御理解といったようなものが感じられる。その感じられるという事がね、いよいよ信じいっていうならば構えを作り信じて的を目指してこれから又一ヵ月間なら一ヵ月間稽古が出けるという事になるとじゃないでしょうかね。
 いきなりじゃない。神様の働きがそこにあいまってのいうならばあの教導というものがねなされていく。それを段々分からして頂くとなら百名なら百名の方がここにおります。その百名の一人一人に、いゃー今日私が一人で頂くような御理解であったというふうに感じれれる所に頂く者の構えがいるんですけれどもね、そういう構えを作っとかんでもいゃー今日は九十節これはもうまさしくお道の教師しかもふな日々信心の稽古させて頂いてむつかしい問題にも取り組んでおる人達に対する辛抱していけよ、その辛抱の目当てというものがねはっきり示される。そこをいわゆる信心辛抱の徳を受けていく力を受けていくというふうにまあ説かれる。
 これは昨日も熊本の富永先生がここでお届けをなさっておられましたけれども、確かにこの方の道は有難い事は分かっておる有難い有難いというておるけれども、親先生が先日お参りした時に金光様の信心のね、この有難い有難いちおかげ頂いたり教え頂いたりする誰でも一応有難くはぁ素晴らしい教えだな素晴らしい信心だなって分かるんです。けれどもその有難いがもうひとつ有難いいわゆる教祖が仰るこの方の道は喜びに喜んで開けた道じゃからと仰せられるがね、有難い有難いというね云うなら喜びに喜んでというその喜びに喜んでというその喜びが、例え難しい事があっても辛抱して行く間におかげが受けられるという又それが徳になり力になるというのは、その喜びに喜んでという所が力になっていくわけなんです。
 只喜んでおれば、いうなら辛抱さえしておけば道が開けるというのじゃない。どこまでも信心辛抱でその喜びに喜びが重なる。喜びに喜んでというその信心のまあ勢いというか瑞々しさというかね、いうならばじっとしてはおられないという心なんです。有難いと思うとりますというわけではなくてその有難いという心をもう一つ加えられる時にじっとしてはおられない、いうならそこに問題があってもそれを頂く事事態が有難い。おかげで稽古さしてもらいますというような有難いが重なってくるわけなんです。
 信心の真、信心の真というけれどもどこが信心の真なのか。どこがその真のいうなら目当てはどこにおくかというような所をですね、まあ合楽ではこう極めていくはっきりさせていくというわけである、と同時に本気でその気にならせて頂いたらハァーこりゃ私共が本気で稽古しょうという気になったら神様が本気で稽古さして下さろうとする働きをそこに感ずるわけです合楽の場合。ね、だからその稽古にまた力がいるという事になるのじゃないでしょうか。
 ね、今日は先生方がずらっと前に並んでおるから今日はひとつ九十節のこれが今日の御理解に適切ごたるから話そうというのではなくて、もう例えば九十節と頂いただけで神様が稽古しょうという特にお道の教師として本気で稽古しょうと本気で合楽理念の実験実証者たらんと願わせて頂いておるものに対してなら今日九十節を選ばれたというだけでもね、実は有難いという事がわかってくるわけです。稽古しょうとすれば本気で稽古させよう。間違いない的をここを目当てに稽古していけとこう示して下さるそれだけで有難い。
 それをほんなら稽古さして頂くという事になるときにですね、例えばね百発百中当たるような事のないにいたしましてもね、その間違いのない目当てに向かって進ませて頂いておる信心が私は富永先生じゃないですけれども、有難い有難い云わゆる喜びに喜んでと云われるのはその辺の所ではなかろうか。教えを頂いて有難い。それをいよいよ実験しょうとする前に、実験せずにはおかれない働きをそこに感ずる時に、私は本気でのいうならば稽古が出来るという事になると思うですね。どうぞ。